こんにちは、齋藤です。
十二国記という小説をご存じですか?
1991年に刊行が始まり、アニメ化もされた人気ファンタジー小説です。
シリーズもので現在も続編が発表されています。
知らない方のために簡単に内容を説明すると、主人公の女子高生が謎の男によって異世界に連れ去られ、そこで起こる様々な困難を乗り越えながら成長していく、という話です。
私は特に中学生の時でしょうか、ドハマリしてしまいました。
受験勉強の合間に、というかこの小説を読む合間に受験勉強をしていたくらいですw
なにせ名言製造機なんですよ、この作品。
多感なお年頃だった私の人格形成に多分な影響を及ぼしたと思います。
大人になった今でも精神的な支柱の1つとなっていると言っても過言ではありません。
そんな数々の名言の1つに、幸せとは何かについて示唆に富んだ名言があったのでご紹介したいと思います。
十二国記の世界観について
まず、十二国記の世界設定について簡単にご説明したいと思います。
この作品は、タイトルの通り12の国が存在する世界が舞台となっています。
各国は王様が統治しており、王様が善政を敷けば国は豊かで平和となり、悪性を敷けば貧しく治安の乱れた国となります。(当然と言えば当然ですが。)
その肝心の王様は身分に関係なく選ばれ、玉座に就くと半不老不死となり国を統治します。
「半」不老不死と書いたのは条件があるからです。
それは統治する国が平和であり続けることです。
もし道をあやまり国が乱れれば、王はやがて死んでしまうのです。
国と王様は一蓮托生なわけです。
今回ご紹介する言葉はそんな王の1人が発したものです。
稀代の名君が発した思わぬ発言
舞台となる12国の1つに『雁(えん)』という国があります。
この国を治める王様は在位500年を誇ります。
名前を延王(えんおう)といいます。
在位500年ということは、500年もの間国を平和に統治してきたわけですね。
今から500年前といえば戦国時代の初期にあたります。織田信長もまだ生まれていません。
そのくらい長い期間ということになります。紆余曲折も10や20では済まないでしょう。
この在位年数は十二国の歴史を見ても有数の長さで、他国から高い評価と賞賛の目で見られています。
この王は元々日本の戦国武将でした。時代は違えど主人公と同じ出身地というわけですね。
そんな同郷の王、幾多の修羅場をくぐった大統治者に、主人公はこう尋ねます。
「延王でも悩むことが?」
それに対する返答はこうでした。
「いくらでもある。だが問題がなくなってしまったら飽きるだけだ。もしそうなったときは、俺は雁を滅ぼしてみたくなる」
当時中学生だった私はこのセリフを発した王の心情が理解できませんでした。
なぜ自らの力で荒廃した国を立て直し、500年もの長きにわたる平和な国を築いたにも関わらず、その国を自分で滅ぼしてみたくなると思うのか。
それは自分の死を意味する行為でもあるのに。
そして15年以上経った今、ようやくその意味が理解できた気がしました。
習慣化された行動には感情が伴わなくなる
人は環境に合わせて変化する生き物です。
置かれた環境で生き残れるよう心身を適応させていきます。
行動の習慣化も適応能力の1つです。
その環境に合った行動を自動的に行うことで、効率的に生きていくことができようになるからです。
この効率化の1つの作用として、行動に対して大きな感情を伴わなくなることも含まれます。
最初は起動したりインターネットに接続したりする度ワクワクしていたパソコン操作も、仕事や趣味などで日常的に使用する内に何の感情もわかなくなってきます。
毎日やることにイチイチ感情を揺り動かされていたら余計にエネルギーを使うことになりますから、それを抑えるようになるのです。
人は幸せに慣れていく生き物である
毎日行うこと、触れることには感情を伴わなくなる。
この性質は周囲の環境に対しても当てはまります。
毎日同じ環境にいると、人はその状況に慣れていきます。
そして慣れていくと感情を伴わなくなります。馴化(じゅんか)と呼ばれる現象です。
馴化は、その環境が害を及ぼすもので無い限り、あらゆる環境に対して起こります。
これは、人は幸せな環境にさえ慣れてしまうことを意味します。
一攫千金や玉の輿などで自由な時間とお金が手に入ったら最初は幸せかもしれません。
しかしその幸せな状態は長くは続きません。環境に適応していくからです。
いちいち日常に心を動かされていたらエネルギーの浪費になってしまいます。
いくら時間やお金が豊富にあっても、その環境がずっと続いて慣れてしまえば、もはや幸せではいられなくなるのです。
課題や目標に向かっていくその過程にこそ幸せがある
では、人はどうしたら幸せであり続けることができるのか。
十二国記の作品内で別の国の王様がこんなことを言っています。(こちらの方が名言らしいかもしれません)
「生きるということは嬉しいこと半分、辛いこと半分なのですよ。人が幸せであるのは、その人が恵まれているからではなく、ただその人が幸せであろうとしたからなのです。苦痛を忘れる努力、幸せになろうとする努力、それだけが人を真に幸せにするのですよ。」
つまり、幸せであり続けるとは、現状の不満を解決して幸せになろうと行動することなのです。
行動分析学の創始者、スキナーもこう言っています。
「幸福とは、自分にとって価値ある結果を求めて行動することである(やや意訳)」
これが幸せの正体です。幸せとは状態ではなく行動にあるのです。
十分な不労所得を形成していてもはや働く必要のない人々であっても、精力的に活動する理由の1つがここにあります。
自分の国を滅ぼしてみたくなると言った延王も、このことを理解していたのだと思います。(フィクションだということは置いておいて。)
何の問題もなく平和に何百年も過ぎていけば、それがいくら幸せな環境であってもいずれ飽きてしまう。そして国を滅ぼしてでも刺激を求めたくなるだろう、ということを。
ですから、彼も悩みがある現状を幸せだと良い状況だと考えているのです。
悩みや課題というのは幸せになるために必要なことなのです。
不満や課題が前提として存在して、初めてそれを解決して幸せになろうとする努力が生まれる。
そしてその努力の過程こそが幸福そのものなのですから。
現状が辛かったり苦しかったり不満があることは問題ではありません。
これらは幸せになるためのお膳立てに過ぎません。あって然るべきものです。
私たちが幸せになれない本当の問題は行動できないことにあります。
繰り返しになりますが、不満の解消、課題の解決に向けて行動することこそが幸せの正体だからです。
たとえ環境に恵まれていても行動できない人は幸せになれません。
行動力の欠如は幸せな人生、明るい未来を送るには致命的な課題なのです。
まとめ
- 人は環境に適応する生き物である
- お金や時間があっても、その環境に慣れてしまえば幸せではなくなる
- 幸せとは、幸せであろうと行動そのものである
- 幸せになろうと行動できないことに幸せになれない本当の理由がある
幸せとは、結果や環境ではありません。
結果を求めて行動し続けることが本当の幸せです。
結果ではなく行動が幸せの鍵なのであれば、私たちは運に頼ることなく幸福になることができます。
そう考えれば幸せになるために必要なものはシンプルです。
幸福に向かって行動できるかどうか、あるいはそのために自分はどうしたら行動できるのかを学ぶことなのです。
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