こんにちは、3110です

今回の題材はこちらです。

こちら。どう思われますか?

巷は賛否両論に分かれるみたいですね。(amazonレビューでは「賛」の方が多いようですが)

ネット上の記事を読んでみると編集者も色々気遣いをして作り上げたみたいです。

小学生を引きつけて、尚且つなるべく批判されない例文づくりって大変だと思います。

しかしその甲斐あってか、売上は好調、テレビでも取り上げられています。

例文もクオリティが高いようで、ある番組でコメンテーターの女性がツボに入っていました。

大人の鑑賞にも堪えうる?出来のようです。

このドリルを使用することへの是非はひとまず置いて、この教材を教材に、どうしたら人は行動するのかを考えてみたいと思います。

 

普通の漢字ドリルではなぜ駄目なのか

○んこドリルが注目されているということは、普通のドリルでは子どもが勉強ししてくれないという悩みを世の親御さん方がお持ちだからだと思います。

では、なぜ普通のドリルではダメなのか?

それは、子どもにとって漢字ドリルをすることのデメリットが大きいからだと考えられます。

もちろん、大人からすれば漢字の勉強は社会では役立つことだとわかっています。

ですから、漢字を勉強することはメリットだと思いますよね。

しかし、それはあくまで大人の視点から見た長期的な展望です。

子どもに限らず、人は将来役に立つとわかっていても行動できるわけではありません。

多くの大人が、規則正しい生活や健康的な食事、適度な運動などを習慣化できずに悩んでいます。

大人だってそうなのですから、子どもならむしろ当然です。

 

では、なぜ将来的に役立つ行動ができないのか?

その理由は人は将来的に大きなメリットより、すぐ獲得できる小さなメリットに強く影響されるからです。

これは、私たちの祖先が日々を生き抜いていくため、目の前の状況にフォーカスするために選択した合理的な行動原理です。

その原理が今の私たちにも受け継がれているのです。

小学生にとっては、漢字を勉強することより、ゲームをしたりマンガを読んだり友達と遊ぶ事の方が即時的に獲得できるメリットです。

私たちがつい飲み過ぎたり、禁煙を破ったり、衝動買いしてしまうと同じです。

しかも勉強はストレスが溜まる上に、遊ぶ時間を奪うものです。

人間のデメリットを伴う行動をなるべく回避するようできています。

これは、古来から生き残るために必要な行動原理です。

よって、漢字ドリルの勉強がしたくないのは自然な現象だといえるのです。

これは、他の勉強全般にも同じ事が言えます。

 

○んこ漢字ドリルが持つ優位性

一方、これがうん○漢字ドリルを使うとなるとどうなのか。

う○こ漢字ドリルには、普通のドリルにはない面白い文章がたくさん掲載されています。

となると、このドリルで勉強することにはマンガやテレビを観るような効果が伴うことになります。

「ドリルをする」という行動に「面白い文章が見られる」というメリットが伴うようになるわけです。

普通のドリルにはないメリットがう○こ漢字ドリルには生じるのです。

直後にメリットが伴う行動は将来起きやすくなるという性質があります。

ですから、うん○漢字ドリルでの勉強は継続しやすくなるというわけですね。

 

本当の問題は勉強した後にどうするか

人が行動をするかどうかは、その行動がもたらす強く結果に強く影響されます。

子どもに勉強をさせたければ、勉強をすることの短期的なメリットを提示してあげる必要があるのです。

う○こドリルは、この単純かつ基本的な行動原理を実証を以て明らかにしてくれました。

しかし、この原則に適っていれば必ずしもう○こ漢字ドリルを使う必要はありません。

普通の漢字ドリルでも良いのです。

問題は子どもが勉強したことに周りがどのように反応してあげられるか、ということです。

最もシンプルな手段は褒めてあげることでしょう。

親や大人からの承認・賞賛は子どもにとって大きなメリットとなります。

結果がどうであろうと、行動したことに対して惜しみない賞賛を贈る、そして次はどうしたらもっと良く出来るかを考えてあげる、その方法を実践したらまた褒めてあげる。

もちろん良い結果が出たら余計に褒めてあげることも大事です。

この繰り返しが子どもの勉強の意欲向上と成長に繋がっていきます。

「勉強はやって当然」「言いつけは守って当然」という考えだと、子どもの頑張りに誠意をもって答えてあげることができません。そんなものは親側の勝手な論理です。

「やる気がないから」「頭が悪いから」と愛のないラベル貼りはせずに、どうやったら勉強が楽しくなる環境を用意してあげられるか、という事を考えれば、○んこに頼らずとも成果を出すことができます。

う○こドリルのような教材はそのきっかけに過ぎないのです。