こんにちは、自称漫画フリークの齋藤です。
今回は1つ、タイトル買いしてしまった漫画作品をご紹介したいと思います。
その名も「ここは今から倫理です。」です。
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いや、まずタイトルが上手いですよね。印象に残ります。
言葉足らずというか。不完全なんですよ。
たとえばこのタイトルが、
「ここで今から倫理の授業をします。」
だと非常に分かりやすい。腑に落ちる感じがします。
ただ、普通過ぎて印象に残らない。ひっかかりが無いわけです。
ところが
「ここは今から倫理です。」
だと、未完成感があるので、私たちは無意識的にその不完全さを埋めようとする。
つまり頭に残るんですね。
人には不完全、未完成なものほど記憶に残しやすい性質があります。
これは「ツァイガルニク効果」と呼ばれているものです。
もしかしたら作者、あるいは編集者の方はこのような効果を知っていたのかもしれませんね。
まあ、かくして私はこの作品をタイトル買いしてしまったわけです。
「ここは今から倫理です。」の内容
この漫画の内容を簡単に説明します。
主人公は高校の倫理教師・高柳先生です。
表紙の方ですね。
ストーリーとしては学校ものの定番です。
高柳先生が次々と起こる生徒の問題に向き合っていく、そんな流れです。
ただし、スクールウォーズや金八先生やGTOのように熱血な感じではありません。
高柳先生は倫理の教師です。
ですので、哲学的な知見を基にして、冷静に、そして真摯に生徒と向き合います。
物憂げでクールな印象の先生ですが、かといって人生を達観しているわけでもありません。
タバコを吸っているところを同僚の先生に見つかって慌てふためいて逃げ出したり、
生徒に不適切な発言をして謝ったり(倫理にもとるような暴言ではないのですが)、
酷い目に遭わされて「もうお嫁さんになれない」と自殺しようとしている女生徒に「頑張って合コンセッティングします」なんてちょっと斜め方向の説得をしたりするのです。
予想外に冷や汗をかいている描写が多い印象でした。
ちなみに「ローマの休日」や「雨に唄えば」が好きな映画だそうです。
ロマンチストな面もあるようですね。
不安は自由のめまいだ
この作品は哲学に聡い先生が主人公ですので、哲学的な格言が頻繁に出てきます。
1話につき最低1つは出てきたと思います。
どれもが心に響く素晴らしい言葉なんですが、その中でも1つ気になる言葉がありました。
「不安は自由のめまいだ」
19世紀の哲学者キルケゴールの言葉です。
高柳先生はある男子生徒にこの言葉を投げかけます。
あなたは自由で、夜の街で遊ぶことも、授業をサボることもできる。
しかしその自由をどこか不安に感じているのではないですか?
と、問いかけるのです。
人はあまりにも自由だと、かえってその自由に不安を覚える。
そういう意味を持った言葉です。
この格言が印象に残ったのは、非常に共感する部分があったからです。
自由という言葉には基本的にはポジティブな意味づけがなされます。
何をしても良い、何でもできる、というのは幸福と同義にも捉えられています。
しかし、本当に自由とは幸福なのでしょうか。
例えば、マーケティングの分野で「ジャムの法則」というものがあります。
24種類のジャムを置いた場合と、6種類のジャムを置いた場合では、6種類の方が購入率が高かったというものです。
一見、24種類の方が選択肢が多く自由に感じられます。しかしあまりにも選択肢が多いと人はどれを選ぶべきなのか、あるいは選ぶべきではないのか迷ってしまいます。
人はあまりにも選択肢が多い状況だとかえって行動できなくなってしまうのです。
また、人は何でもできる状況ではかえっていつも通りの習慣的な行動をしてしまうことが知られています。
「もうすぐ休日、あれをしようこれをしようと考えていても、結局は寝っ転がってテレビを1日中観ている。」
あなたもこんな経験があるのではないでしょうか。
何でもできる状況だと、人は本当にしたいことができなくなるのです。
これらの場面は、選択の余地が多く残されている、ある意味で自由な状況です。
しかし結果的な行動が満足いくものでなければ、とても幸福だとは考えられません。
私は幸福の定義を
「自分にとって価値ある目的に向かって行動する過程」
だと考えています。
しかし、余りある自由はかえって有意義な行動を阻害してしまいます。
つまり自由=幸福だとは必ずしも言えないのです。
本当の幸福とは「価値ある目的に拘束されること」
高柳先生は、こんなことも言っています。
「映画を観ましょう。映画に縛られる2時間は自由はないが不安もない。それは本当に、ただ単純に楽しい時間だから・・・」(やや改変)
自由は誰しもが憧れるものです。
しかし一方で、時間的・金銭的な自由が必ずしも幸せをもたらすわけではありません。
反対に、時間的あるいは金銭的に不自由な人であっても輝いて見えたりします。
その差こそが、価値ある目的に向かって行動しているかどうかの差だと思います。
価値ある目的に向かうということは、ある意味ではその目的に拘束されている状況です。
しかし自分の目的に向かう形で拘束されている場合は、不自由を感じません。
まさに面白い映画に釘付けにされているような状況です。
自由はありませんが、目の前の光景をただ楽しんでいるのです。
本当の幸福とは望む在り方、価値ある目的で自分を縛ることです。
例えば受験や資格試験を控えている時。
こういう状況では勉強をせざるを得ません。
その時だけを見れば、勉強に縛られており、まさに自由がない状況です。
しかし、そこで得られた知識や成果はあなたの価値ある目的に資するものになります。
達成感すら感じるかもしれません。少なくとも不幸ではないでしょう。
あるいは、休日は知人友人と旅行に出かける約束をしている。
このような状況であれば、たとえその日になって気が向かなくても「やっぱ行かない」というわけにはいきません。
見方によっては自由がない、拘束されている状況です。
しかし、結果として獲得できる旅行先での経験は、あなたにとってプラスになるはずです。
これも、拘束されずにその日の気分に任せていては得られなかった、価値ある目的の達成といえるでしょう。
幸せの本質は、状況として自由かどうかではありません。
例え拘束されていても、本当に価値ある目的を見つけているか、それに向かって行動しているかが重要なのです。
それができている人は、心の中では自由を感じているかもしれませんね。
価値ある目的を見つけるには
では、価値ある目的はどうやったら見つけられるのでしょうか。
そのヒントとして、2つの格言をご紹介したいと思います。
どちらも「ここは今から倫理です」に登場する言葉です。
「何を聞こうと読まされようと、自分自身の理性が同意した事以外何も信じるな」
ゴータマ・シッダータ(ブッダ)
まず、「偉い人が言っていたから、周りが良いと言っていたから」はあなたにとって価値ある目的である理由になりません。
あなた自身が心から納得していなければ本当の意味で価値ある目的にはなり得ないのです。
その意味では、私のこの意見も無闇に信用するべきではないですね(笑)
では、どうすれば心から納得できるのか。
そのヒントとなるのが以下の格言です。
「なんといっても最上の証明は経験だ」
フランシス・ベーコン
人は経験し体感することで初めて理解することができます。
伝聞のような疑似体験ではなく、本当の意味でその物事に触れることができるからです。
5感を伴う経験は最上の学習機会です。
私たちは経験によって物事を本質的に理解し、その価値を判断することができるのです。
そして、その大切な経験を経るには物事に対して一歩踏み出す「行動力」が必要です。
同様に「継続力」も大切です。ある程度の回数や期間を続けることで初めて理解できるものもあるからです。
価値ある目的を見つけ、それに向かって行動する幸せを手に入れるには、「行動力」と「継続力」この2つの力を育むことが重要なのです。
まとめ
- 人はあまりに自由だと習慣的、消極的な行動を取ってしまう
- 幸福とは価値ある目的に縛られることにある
- 価値ある目的を見つけるには行動力と継続力を育てることが大切である